胡蝶の夢 別館
1919(大正12)年
④
大正12年の晩春のこと。山口県の下関から朝鮮半島の釜山を結ぶ連絡船が玄海灘を通過していたおり、船から身を踊らせて海に飛び込んだ女性がいた。
後になって訴訟が提起されて、 始めて件の女性が某教授の妻で、岳母は男爵未亡人であったことが下の遺書と共に判ったという。
この遺書がこのページのなかで一番のお気に入り。描写の細やかさもそうなのだけど、書き手の世の中にも、自分自身にもどこか冷めたスタンスが好きだ。
という訳で少し長いが参考文献からそのまま引用する。
(山名正太郎 日本自殺情死紀p186)
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1933(昭和8)年
6月
⑤
青山に來てから十ヶ月になるが 幸福な日は一日とてなかつた、 奥様に何とも申譯ない事をしてしまつておわびの仕様もない、 文子様からも澤山お小言を 頂戴してゐます。
奥様の手にかけられて殺されない中に、私は死んで幸福になります、
昭和五年三月十四日に上京、思ひ出のこの日(十一日)に私は死にます、お父様やお母様先立つ不孝をお許し下さい
1933年6月11日夜10時半ごろ、大塚駅で18、9歳くらいの若い女性が電車に飛び込み自殺を遂げた。
服装からしてどこかの家の女中かと思われた。懐中に上記の遺書があった。
(東京朝日新聞1933.6.12 朝刊)
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1936(昭和11)年
3月
⑥
私も永く新井さんのお世話になつていましたがあまり馬鹿にしたことをいはれるので この先きを二年と思ひながら口惜しくて堪りません、 朝から晩までこき使はれてもうこの世が厭になりました、それで友逹と天國へ参ります
金が七百円預けてありますから奥さんから受け取つて下さい
1936年3月6日朝8時頃伊豆大島三原山の河口に飛び込んだ心中を遂げた。二人は渋谷の医者の家で女中をしており、前日に二人で申し合わせて家出をしていた。冒頭文は飛び込んだ女中のうち一人が書いたものである。宛名の人物とどんな間柄なのか記事には書かれていないが、おそらく家族に宛てたものか。
記事には主家の夫人のコメントも掲載されている。
肉身の様に思つてゐたはぎのから恩を仇で返へされる様に書のこされて殘念でなりません
とのこと。 夫人なりに二人のことを気にかけてきたのは事実なのだろうがこの世には「ありがた迷惑」とか「親切の押し売り」あるいは「恩着せがましい」と言った言葉がある。自分は相手のためのつもりでも当人がどう思ってるか別である。 ましてや「奥様」と「女中」の主従関係なのだ。二人の立場を考えれば夫人の「親切」を内心嫌だと思っていてもそうとはっきり言えないだろう。 しかも、住み込みで家事の手伝いをする彼女たちは息抜きをする暇もあまりなかったに違いない。 そのストレスが積み重なりついには自死を決意したのではないだろうか。
(東京朝日新聞1936.3.7 朝刊)
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